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行ってきました。節句の旅

 

 

 

山口県下関市唐戸桟橋

 

チャーター船乗り場の唐戸桟橋から船で約10分で巌流島に到着します。乗船金額は大人1,000円ぐらい子供500円ぐらいです

 

右の写真は巌流島文学碑と巌流島木碑。
海の向こうに見えるのが関門海峡大橋です。右側が九州側。左側が下関側です。

 

巌流島の正式名称は船島といい、昔は人が住んでいたが30年前に無人島になったとか。かわりに狸が走っているのを見かけるらしい。

秘剣つばめ返し

 

どんな剣法か資料がありませんが、ツバメがパッと向きを変えるような剣術らしいです。そして写真の銅像の佐々木小次郎の右手の刀の持ち方が逆なんです!この持ち方に秘密が隠されている?

 

二刀流

 

宮本武蔵は左腰に刀を差しているのに、どうして二刀流をせずに木刀一本なのか?小次郎を死なせないために木刀を使ったのではないでしょうか?木刀も怖いですけど!

 

 

 

決闘の地 巌流島

海から見た下関市 このコーナーは[ 行ってきました。見てきました。節句の旅 ]ですが回を重ねるごとに節句の旅から歴史の旅に内容が変わっていって申し訳ありません。御付き合いのほどよろしくお願いします。

 

前回の安土城の旅から一年。さらに歴史探究に意欲がわき、漫画[バカボンド]の読者でもある私が、今回、家族旅行を兼ねて訪れたのは宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘地として有名な巌流島です。本州の端っこに浮かぶ小さな島でなんと!富山から約900kmもはなれた所です。


富山 ICを夜中の12時に出発し、北陸道から名神高速、さらに山陽自動車道で広島県の廿日市JCTまで9時間。日本海と雰囲気が違う、穏やかな瀬戸内海を横目にお昼の12時半に再びスタート。中国道を経て下関 IC到着が午後3時、巌流島行きのチャーター船乗り場(唐戸桟橋)まで、計12時間のロングドライブでした。運転好きな私も、ガソリン価格高騰の影響もあって、さすがに財布の中身も体も心配になってきました。

下関市のイラスト地図 武蔵の気分で島へ渡るよ。

 

下関 ICを降りて10分ぐらいで唐戸桟橋にチャーター船乗り場(門司、関門海峡ツアーもあります。)があり、船で10分で巌流島に到着します。


時期が真夏でしたので、船内はクーラーがんがんで、とても快適でした。
地図の青い線は高速道路です。赤い丸印が唐戸桟橋。点線がチャーター船の通るルートです。

巌流島石碑佐々木小次郎 お待ちかね!

 

島に上陸してみると下関側からは、約200mぐらい門司方面側からは400mぐらいに位置していて本州からはすごく近く波もおだやかで、宮本武蔵が手こぎボートで渡れたのも、うなずけます。多分、私の予想ですが島から近い下関側から上陸をしたと思います。小次郎と武蔵がどこから船に乗って来たかは不明。でもなぜ二人はこの島を選んだのでしょう?

巌流島全体のイラスト島全体はどうなってるの?

 

簡単に地図を作ってみました。左上が船着場で下関側から島に上陸すると、ここに手こぎ船が着いたと推測します。

巌流島の正式名称は船島といい、多分、右のイラストの黄色の部分が船の形に似ていた昔の島の形です。(形は推測)ピンクの部分は昔、岩礁だらけだった海岸を埋め立てし、見た感じは造船場のような敷地で民間所有地だそうです。パンフレットによると昔の6倍ぐらいになってるとか。

武蔵参上?の砂浜大河ドラマ用のセット?

 

ここが上のイラストの黄色い部分の東側の人工砂浜です。砂浜には手こぎの小さい木の船が演出してあり、雰囲気はこの島で一番です。

 

当時は岩礁があったらしいです。海の潮と潮が混ざりあう所では魚が飛び跳ねていました。下関だけあってフグかと思いましたけど!

話は変わりますが佐々木小次郎が先に巌流島に到着していましたが、遅れて宮本武蔵が小舟で島にやってきますが、九州側の門司からやって来ると武蔵の姿は丸見えですが反対の下関側からだとぜんぜん見えません。写真の向こうに映っている山は九州の門司IC方面です。

二刀剣法VS秘剣つばめ返し

 

          決闘する武蔵像と小次郎像がある展望広場

決闘する武蔵像と小次郎像

すごく爽快なロケーションで風がすごく気持ちいい。こんな景色の中で戦ったのでしょうか?今では、ビルや近代的な建物が立ち並び 大型船も行き来していて、時代に取り残された いや、時間がここだけ止まっているような島でした。

佐々木巌流之碑佐々木巌流之碑

 

右の写真は佐々木巌流之碑ですが佐々木小次郎の墓ではないと表記されています。船島の工事完成を祝って建てられたものです。

 

武蔵は決闘が終わった後、島から去ったが、小次郎の最期はどうなったんでしょう。説によれば戦いに敗れた時、まだ意識はあったそうですが、消息はわからぬまま。本当のお墓はどこにあるのでしょうか?

地元の言い伝えによると浜の者(漁師?)が小次郎の渡島を止めたが「約束した以上、何がおきようが行かねば!」と島に向かった後、敗れた報告を受けた浜の者達が小次郎を想い、墓を建てて小次郎の巌流にちなんで『巌流島』と名付けられたという説もあります。